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★ そのルーツは1920年ごろまでさかのぼりますが、それは1つではなくて、同じような時期に日本の何か所かで、それぞれに違う生まれ方をしたようなのです。1つは東京のあるデパートが、関東大震災で全焼した直後の1923年に仮店舗で営業を再開したときのことです。手狭な食堂の混雑緩和と営業効率を上げるために、値段をつけた「飲食物見本」を展示した食品ケースを階段の踊り場に置いて、入口で食品切符を買い、席に着いたら食券を渡すという方式をとったそうです。それまでは、客がテーブルについてからメニューを見て、注文をするという方法で(現在もそのやり方は存在しますが)、時間がかかる上に変更や取り消しがあり、面倒なことが多かったことから考えられたアイデアで、この方式にしてから売り上げが4倍になったということですから、「飲食物見本」を使うというのは画期的なアイデアだったといえます。その繁盛ぶりを見たほかの百貨店や飲食店にもその方式が広がり、その5、6年後には、東京中に普及したということです。当時の「飲食物見本」が今でいう「食品サンプル」なのです。その東京のデパートの「飲食物見本」を作ったのは、須藤勉という人で、彼は人体模型ろう細工の仕事をしていた人です。仕事では皮膚病や人体の内臓などを作っていたのですが、そのような気持ちの悪いものを作るのに嫌気がさし、こっそり野菜や果物などを作っていたということです。デパートの食堂も最初は、本当の料理を見本として使っていたのですが、なま物はすぐに変色したり、ハエもたかるし、夏は半日もすると腐るので、デパートの食堂係だった人が友人の須藤さんに相談し、蝋で見本を作ってみたところそれが成功した、といういきさつだったのです。
もう1つは、1917年の京都です。島津製作所という学校の理科教材用の標本・模型製作会社があり、そこで「保健食 料理模型」なるものを作ったという記録があるそうです。それを作っていたのが、西尾惣次郎という人です。そして、その「保健食 料理模型」を見た人が飲食店で使おうと思い、島津製作所に注文が舞い込んだのではないかというのが、参考文献の著者の推測です。
そして、もう1つは、1932年大阪です。大阪に住む岩崎瀧三という人の家に奥さんの従兄弟が移り住んできて、「街でおもしろいものを見た」と言ったのがそもそものきっかけ。その面白いものとは食堂の飾り窓にある本物そっくりの食べ物の模型でした。岩崎瀧三は興味を抱き、「なにで出来ていた?」と聞きますが従兄弟にはわかりませんでした。しかし、岩崎瀧三はろうで出来ているのではないかと直感したそうです。そして、数日後、従兄弟がまた、「仲間に料理の模型の外交をやっている奴がいるんだ」と言います。その後、従兄弟はしばらく家に帰ってこなくなってしまうのですが、ある日ひょっこり、料理の模型を持って帰ってきたのです。実は、料理の模型の外交をやっていた仲間が、会社のお金を使い込んでしまい、模型の作り方や販売のノウハウを岩崎瀧三教えるから、埋め合わせるためのお金を貸してくれということなのです。そこで、岩崎瀧三は「この商売を企業化して日本中に普及させよう!」と決意したというのです。
この3人、当時はまったく面識もありませんでした。東京の須藤氏と京都の西尾氏に関しては、同じような時期なのに自分以外にも同じようなものを作っている人間がいることすら知らなかったということです。まだ、テレビもなく、今のように交通も発達していなかった時代なので、当然と言えば当然ですが、同じ時期にまったく離れた場所で同じようなものの需要が発生したのは不思議なことです。岩崎氏と須藤氏に関しては、第2次世界大戦後、大阪の岩崎氏の会社が東京進出したときに岩崎氏が須藤氏を表敬訪問して会ったということです。そして、名前も当時は「飲食物見本」、「食品模型」、「料理模型」とそれぞればらばらに呼ばれていたものが、いつからかはっきりはしませんが、現在は統一して「食品サンプル」と呼ばれるようになりました。
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