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柔道は、剣道や空手道と並び、日本でもっとも広く行われている「武道(BUDO)」の一つです。12世紀に「侍(SAMURAI)」が国を治める鎌倉時代が訪れ、17~19世紀の江戸時代まで侍の統治が続きます。そんな中、武芸十八般と言われる侍の武術の一つとして、戦場で相手と接近して組んで戦う「組み討ち(KUMIUCHI)」を想定した「柔術(JIU-JITSU)」が
発展しました。江戸時代までにいくつかの流派が生まれ、侍の鍛練法の一つとして広がりました。江戸時代末期までに100を越える流派が生まれていたとされます。
しかし明治維新(徳川幕藩体制崩壊から明治新政府による中央集権的統一国家成立と資本主義化の出発点となった一連の政治的・社会的変革。)を迎え、侍の時代が終わると柔術を学ぶ者はだんだん減っていきました。柔術練習者が減少していく中、柔道(正式名称:日本傳講道館柔道)の創始者・嘉納治五郎師範は少年時代から身体が弱く、なんとか強くなりたいと柔術を修行しました。はじめ天神真楊流柔術を、続いて起倒流柔術を学び、それぞれ奥義に達しましたが、他の流派にも興味をもち、研究に打ち込み、諸流のよさをとりいれ、さらに自らの創意と工夫を加えた技術体系を確立するとともに、理論面でも柔術の「柔能制剛(しなやかなものが、その柔軟性によって、固いものの鋒先をそらし、結局勝つことになる。柔弱な者が、かえって剛強な者に勝つ)」という柔の理から「心身の力を最も有効に使用する」原理へと発展させ、新しい時代にふさわしい技術と理論を組み立てました。嘉納治五郎師範は この原理を「精力善用」の標語で示し、これこそ柔道技術に一貫する原理であるとともに、社会生活すべてにおいても欠くことのできない重要な原理であることを明らかにしました。 主とするところは「術」ではなくこの原理と目的により自己完成をめざす「道」であるとして、術から道へと名をあらため、その道を講ずるところという意味で名づけられたのが、1882年(明治15年)に嘉納治五郎師範が創設した柔道の研究・指導機関、道場である「講道館」です。学習院教授時代に住まいを借りていた東京都台東区の永昌寺で、初めは 先々代住職の瞬法上人の許しを得て本堂脇の座敷を練習場にしたところ、振動で仏さまが傾き、位牌が倒れるなど大騒ぎ。ついに別に12畳の道場を建てて、心身鍛練の道を講ずる館「講道館」を開いたというのが誕生の秘話だそうです。嘉納治五郎師範はまた、国際オリンピック委員会会長クーベルタン男爵の要請により東洋初のオリンピック委員に就任、また大日本体育協会(現日本体育協会)を創設するなど、国内外において体育の奨励に尽力しました。
東京高等師範学校長時代には同校に体操科を設置し、青少年の身体を通しての教育のために体育指導者養成をはかりました。このようなことから「日本体育の父」とも仰がれています。また、積極的に諸外国を訪問し、その都度柔道の講演、実演をしてその紹介と普及につとめました。柔道の試合競技は1964年の東京オリンピックで正式競技となりました。女子種目も、1988年のソウルオリンピックで公開競技、1992年のバルセロナオリンピックでは正式種目に採用されました。現在は、世界中に普及し、国際柔道連盟(International Judo Federation:IJF)の加盟国・地域も187カ国あります。日本以外では、欧州で人気が高く、特にフランスの登録競技人口は、日本の登録競技人口を大きく上回っています。同連盟の規約の第1条には「国際柔道連盟は嘉納治五郎によって創設された肉体と精神の教育体系を柔道と認める」と定められています。
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